百人一首かるたの歌人エピソード~”アブナイ天皇”のピュアなラブレター、陽成院のお話

筑波嶺(つくばね)の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる

”畳の上の格闘技”、競技かるたで使用される小倉百人一首は、100首中なんと43首が恋の歌!
中でも、今回ご紹介いたします歌は、”アブナイ天皇”として悪名高い陽成院が、後に妃となる政敵の娘、綏子(すいし)内親王に捧げた、とってもピュアな恋の歌です。

 

”アブナイ天皇”というレッテルの真相は・・・

陽成天皇(ようぜいてんのう、869年~949年)は、歴代天皇の中でワースト3に入るほど、評判の悪い天皇です。わずか9歳で即位し、17歳で退位させられ、その後82歳で亡くなるまで、65年に渡る隠居生活を余儀なくされました。

カエルをヘビに食べさせて喜んでいた、人を木に登らせ、落として楽しんでいた、女子を誘拐して山荘に連れ込み、そこで仲間と遊んでいた等々、陽成天皇の奇行悪行に関しては、枚挙にいとまがありません。
最もひどいのは、宮中で乳兄弟、源益(みなもとのまさる)を殺害した「宮中殺人事件」の容疑者とされたことでしょう。陽成天皇が退位に追い込まれた原因なのだとか。

今では、その多くは、誇張あるいはでっち上げではないかと考えられています。
記録に残っている陽成天皇の悪行は、権力争いに勝った政敵が、自分たちの正当性を主張するために編纂させたものだったのです。

 

江戸時代に描かれた陽成院(出展:国会図書館)

 

運命の女性との出会いから歌の誕生へ

陽成院の歌は、退位から約10年の後に作られました。「釣殿の皇女(つりどののみこ)につかわしける」という記録が残っています。
釣殿の皇女とは、政敵によって、陽成院の次の天皇に推された、光孝天皇のご息女、綏子(すいし)内親王のことで、後に陽成院のお后となった方です。

陽成院と綏子(すいし)内親王の結婚は、政敵による融和策で、いわば政略結婚だという説もあります。でも、この歌の意味を考えてみたとき、そこには恋愛ドラマのようなピュアな恋があっただろうと思えてなりません。

 

筑波山の、男女二つの峰から流れ出し、合流して里に流れていく川は、はじめは細々とした流れだが次第に水かさを増し、深い淵となっていくという。
私は、恋なんか決してしないと決めていたのに、あなたに恋をしてしまいました。筑波山を流れる男女川(みなのがわ)のように、私の恋心もどんどんつのって、今では淵のように深くなっています。

 

「西に富士、東に筑波」と讃えられる筑波山の美しい山姿は、万葉集にも登場するほど、古くから人々に愛されてきました。
西側の男体山(標高871m)と東側の女体山(標高877m)とで成り立つ筑波山。その二つの峰の間を南に向かって流れる川が、男女川(みなのがわ)です。

※みなのがわは、”水無川”と表記することもあります。

※陽成院が実際に筑波山を見に行ったことは、なかっただろうと言われています。筑波山の神々しい美しさを想像して、自分の心の内を投影させたのでしょう。

 

筑波山は、朝夕の美しさから「紫峰」とも言われます

 

陽成院が唯一心を許せた女性、綏子(すいし)内親王

陽成院の母親、藤原高子(ふじわらのたかいこ)は恋多き女性で、平安時代随一のプレイボーイ在原業平とも関係があったと言われ、陽成院は在原業平の子では?という噂もあったようです。
奔放な母親を持ち、父親が誰かもわからない。純粋な恋愛など、自分には縁がないと考えても不思議ではない陽成院。権力争いにも敗れ、どれほど心が荒んでいたことでしょう。
そんな陽成院が、初めて心を許せる女性、綏子(すいし)内親王と出会い、恋に落ちてしまいました。
この歌からは、自分自身に対する戸惑いも伝わってきます。

 

お二人のその後

陽成院と綏子(すいし)内親王は、おだやかに仲睦まじく暮らしたそうです。残念ながら、綏子(すいし)内親王は陽成院より先に亡くなってしまいました。
優れた歌人だったと言われる陽成院ですが、残っている歌はこの一首のみ。
もし、綏子(すいし)内親王が陽成院より長生きをしていたら、陽成院の歌は、綏子(すいし)内親王によって、きちんと残されていたかもしれません。
陽成院の歌は、お二人の心に残ったまま、お二人とともに極楽浄土に行ってしまったのですね。

 

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瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
“畳の上の格闘技”、競技かるた。競技の場では、歌の内容や作者のことが問われることはないのですが、ただの丸暗記ではもったいない! 小倉百人一首の歌人たちには、とても興味深いエピソードが秘められているんです。

情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード~史上最凶の怨霊から最強の守護神になった、崇徳院のお話

 

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