
百人一首かるたの歌人エピソード第65番・相模~才女のフラれた歌が共感を呼ぶ!
恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋にくちなむ 名こそ惜しけれ
”畳の上の格闘技”、競技かるたで使用される小倉百人一首は、恋の歌オンパレード!何と100首のうち43首が恋の歌。そのほとんどが、片思いや別れ、恨み・つらみといった、思い通りにいかない恋を描いています。第65番・相模はその代表格!才女が詠んだフラれた歌が、千年の時を超えて共感を誘います。
失恋や離婚を乗り越えてキャリアアップ
相模(998年頃~1061年頃)は、平安時代後期の歌人です。本名はわかっていません。相模というのは、最初の夫、大江公資の任務地、相模国に由来しています。夫の任地に随行したものの、夫婦仲は破綻し離婚。その後、相模は一条天皇の皇女、脩子(しょうし)内親王に仕えました。

江戸時代の絵師・土佐光起の描いた相模(出展:Wikimedia Commons)
相模は、若い頃は、2度の結婚と離別、また第64番・藤原定頼や源資通といった貴公子たちと華やかな恋愛遍歴があるものの、うまくいかず悩み深い人生だったようです。
でも、その経験を数々の素晴らしい歌に昇華させた相模は、晩年は優れた歌人として名を残しました。
あなたのことを恨み悲しみ泣き続けて、涙の乾くひまもない袖が朽ちていくのさえ口惜しいのに、この恋のおかげで悪い噂で朽ち果てそうな、私の評判が惜しまれてなりません
小倉百人一首に選ばれたこの歌は、相模が50代の頃に開催された歌会で披露されました。
実際の恋歌ではなく、与えられたお題に対して詠んだ歌です。恋愛経験豊富な彼女ならではの、リアルで飾らない表現が人々の心に響いたのかもしれません。実際、この歌で相模は歌合せに勝利しました。
若い頃は男性運に恵まれず、苦労した相模が歌壇に登場したのは、40歳を過ぎてからと言われています。その後70歳前後で亡くなるまでの間、相模は数多くの素晴らしい歌を残しました。
第100番・順徳院は、平安中期の女流歌人として、赤染衛門、紫式部、和泉式部と並ぶ優れた歌人として相模を絶賛しています。
また小倉百人一首の撰者、第97番・藤原定家は、他の歌集でも相模の詠んだ歌を多く採用しました。どれも別れや切ない思いを歌い上げたものばかりなのだとか。大勢の人々の共感を集めた相模は、さしずめフラれた歌のエキスパートといったところでしょうか?(笑)
☆こちらの記事は、相模の恋のお相手、第64番中納言定頼をご紹介しております。

朝ぼらけ 宇治の川霧 絶え絶えに あらわれわたる 瀬々の網代木
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情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード第64番権中納言定頼~幻想的な光景を歌い上げた、容姿端麗で教養豊かな文化人なのですが・・・ ⋆ MUSBIC/ムスビック
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