百人一首かるたの歌人エピソード第100番~小倉百人一首のトリ・順徳院は、鎌倉幕府に挑んだ”ラスボス”後鳥羽上皇の自慢のムスコ!
百敷きや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
第1番の天智天皇から100番まで、ほぼ時代順に並ぶ小倉百人一首。そのトリ、第100番は順徳院(1197~1242)。北条義時率いる鎌倉幕府に挑んだ、”ラスボス”後鳥羽上皇の第三皇子で、自慢のムスコだった方です。
畳の上の格闘技、競技かるたに使われる小倉百人一首の歌人エピソード、今回は第100番、順徳院をご紹介いたします。
”ラスボス”後鳥羽上皇のお気に入り
後鳥羽上皇の後を継いで即位したのは、兄の土御門天皇でした。温厚なお人柄で、後鳥羽上皇に「つまらん」と評価された土御門天皇は16歳で退位させられ、順徳院が14歳で即位。順徳天皇の誕生です。
即位したと言っても、後鳥羽上皇が後白河法皇ばりの院政を布いていたため、順徳天皇はとてもヒマだったようで、王朝時代の有職故事の研究に没頭しました。藤原定家の手ほどきを受けて、和歌も上達。
でも権力の中心は後鳥羽上皇だったため、宮中は閑散としていたのだとか。
宮中の古びた軒端に生えているしのぶ草を見ていると、栄華を誇っていた昔が思い出されて切なすぎる…
百敷きや、ももしきや、ももひきや、股引!?
いえいえ、股引ではありません(笑)
”百敷き”とは、たくさんの石と木(ももいしき)を使った立派な建物、つまり宮中を表す言葉です。
第100番の歌ということで、藤原定家は”百敷きや”というこの歌を、シャレで選んだのかもしれません。本当かどうかは選んだ人のみぞ知る、ですけどね(笑)
順徳院の壮絶な最期
父・後鳥羽上皇とともに鎌倉幕府に対して挙兵した承久の乱は、幕府軍の圧勝で幕を閉じました。敗れた後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳院は佐渡へ流されました。順徳院は、佐渡では、黒木御所と呼ばれる質素な御所で21年を過ごし、45歳で崩御しました。
一説によると、順徳院の最期はとても壮絶だったようです。
1242年のはじめ、ときの天皇が崩御したときに、順徳院はご自身の皇子の即位を望んだのですが、幕府に拒まれてしまいます。
これで京に戻る望みも、子孫への皇位継承の希望も完全に断たれたと悟った順徳院は、「存命無益」と言って一切の食を絶ち、最後は焼石を頭にのせて自殺したのだとか。父、後鳥羽上皇が隠岐で崩御した3年後のことでした。
独特の文化の礎に
順徳院も父・後鳥羽上皇と同じく、配流先では、島を出ることはできないまでも、比較的自由に過ごしていらっしゃったようです。順徳院には、佐渡で2人の女の子と1人の男の子がいたと言われています。
隠岐や佐渡といった流刑の島には、独特の文化が育まれています。京の都からもたらされた文化は、島の人々が大切に伝え残し、現代へと受け継がれたと思うと、感慨深いものがありますね。
※「順徳院」という諡は、亡くなられた後につけられたもので、承久の乱のときは「順徳上皇」、佐渡に流されたときは「佐渡院」でした。私たちのサイトでは、混乱を避けるため「順徳院」に表記を統一しております。
※承久の乱は、後鳥羽上皇は北条義時の排除だけを狙ったもので、倒幕の意思が強かったのは、順徳院だという説もあります。
☆こちらの記事では、順徳院の父上、後鳥羽上皇の配流先・隠岐でのご様子をお伝えしております。
我こそは 新島守よ(にいじまもり)よ 隠岐の海の 荒き波風 心して吹け
「承久の乱」で鎌倉幕府軍に大敗を喫した、”ラスボス”後鳥羽上皇の、その後の運命やいかに?
情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード番外編~「承久の乱」で鎌倉幕府軍に敗れた”ラスボス”後鳥羽上皇、謎に包まれたその後を探る! ⋆ MUSBIC/ムスビック
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