百人一首かるたの歌人エピソード第4番山部赤人~霊峰富士を讃えた、謎の天才歌人による謎多き歌
田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
日本を象徴する山として、神の住まう山”霊峰”として、古くから人々に敬愛されてきた富士山。日本の最高点(標高3776m)から駿河湾にまで及ぶ雄大な山姿は、多くの歌人たちによって讃えられてきました。
”畳の上の格闘技”、競技かるたで使用される小倉百人一首にも、富士山は登場します。
百人一首かるたの歌人エピソード、今回は第4番山部赤人の登場です。謎の天才歌人が霊峰富士を讃えた、謎多き歌をご紹介いたします。
※「山邊(辺)赤人」と表記されることもあります。
古代の天才歌人、山部赤人
山部赤人(生没年不明)は、奈良時代初期の人。残された資料も少なく、謎の多い人物です。聖武天皇時代の宮廷歌人だったと考えられています。天皇の行幸に同行して歌を捧げたり、皇室で不幸があったときは、挽歌を詠んだりしていました。様々な土地を訪れていたようで、自然の美しい情景を詠んだ歌が、多く残されています。
山部赤人は、三十六歌仙のひとりで、柿本人麻呂と並ぶ「歌聖」と讃えられています。
田子の浦に出かけて、はるかに仰ぎ見ると、白い布をかぶったように真っ白い富士の高嶺が見え、そこに雪が降り積もっています
「田子の浦に」は、作者が田子の浦に立っていることを意味します。
「白妙」は純白の布のことで、冨士にかかる枕詞です。雪のベールをかけた富士山の白と、作者が立っている海辺の青との、鮮やかなコントラストが伝わってきますね!
謎ポイントその1.表現が変化した!?
田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪はふりける
田子の浦を過ぎ、広い海に漕ぎ出て眺めてみると、真っ白に、富士山の山頂に雪が降っています
この歌が最初に登場した「万葉集」では、小倉百人一首とは別の表現でした。「ゆ」は、経由点を表す格助詞。作者が田子の浦を過ぎて、海の広いところまで漕ぎ出していることを意味します。
また「万葉集」では「真白にそ」という直接的で素朴な表現だったのが、「古今和歌集」では「白妙の」というやわらかな表現に書き換えられています。
どうやら「古今和歌集」に収めるときに誰かが変更を加えたようです。
小倉百人一首では、古今和歌集版が使われています。
ということは・・・
変更を加えた犯人は、「古今和歌集」と小倉百人一首の選者、藤原定家でしょうか?定家と言えば、独特の美学を持つ頑固なヤツ。いかにもやりそうですが(笑)、真偽のほどは不明です。
謎ポイントその2.田子の浦はどこ?
田子の浦という地名は、万葉の昔から登場します。現在の富士市田子の浦港周辺とは異なり、同じ静岡県でも駿河湾の西側、薩埵峠から由比、蒲原あたりとされてきました。西から薩埵峠を過ぎたときに、突如視界に現われる富士の姿は、歌川広重にも描かれた、まさに絶景!
しかし、江戸時代後期に、国学者・山口志道が、安房の国(現在の千葉県・鋸南町)、田子台のある勝山海岸ではないかと提唱しました。
内房の海岸から、海越しに見える霊峰富士の眺めも格別!思わず納得してしまいます。
古代のミステリー、答えが判明する日は来るのかしら?
謎は謎のまま、歌の美しさを楽しむのも良いものですね(#^^#)
☆こちらの記事では、中世の名僧と讃えられた慈円をご紹介しています。
おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣(そま)に 墨染(すみぞめ)の袖NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、その知性と怪しさ(!?)で、独特の存在感を放ってきた僧・慈円。
情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード第95番~鎌倉時代という動乱の世にあって、公家と武家の協調を夢見た偉大な僧侶・慈円 ⋆ MUSBIC/ムスビック
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