比叡山延暦寺 京都市街 慈円 百人一首

百人一首かるたの歌人エピソード第95番~鎌倉時代という動乱の世にあって、公家と武家の協調を夢見た偉大な僧侶・慈円

おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣(そま)に 墨染(すみぞめ)の袖

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、その知性と怪しさ(!?)で、独特の存在感を放ってきた僧・慈円。中世きっての名僧と言われ、政治にも、和歌の世界にも、そして著書『愚管抄』によって歴史研究にも、大きな足跡を残した方です。
百人一首かるたの歌人エピソード、今回は第95番、前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)の歌をご紹介いたします。

 

慈円 畳の上の格闘技 競技かるた 小倉百人一首

永井如雲編『國文学名家肖像集』(昭和14年)に収録された慈円(出典:Wikimedia Commons)

 

慈円(1155-1225)は、天台宗の僧です。父は摂政関白の藤原忠通、兄はこれまた名門の九条家を開いた九条兼実(かねざね)という、超名門ファミリーに生まれ育ちました。
11歳で仏門に入り、13歳で出家した慈円は、兄・兼実の出世とともに、僧としての地位も上昇していきます。慈円は、源頼朝と兼実の推挙により、38歳という異例の若さで天台座主(比叡山延暦寺の住職で天台宗で最も位の高い僧侶)になりました。その後は、兄の地位の浮き沈みに応じて、4度にわたって座主を務めたそうです。

慈円は、政治力やコミュニケーション力に長けていたと言われ、時の最高権力者、後鳥羽上皇に気に入られ、重用されました。
しかし、後鳥羽上皇とは武家政治に関する意見が合わず、1219年、慈円は後鳥羽上皇の前から去ってしまいます。その2年後、承久の乱が勃発することに・・・

 

瀬田の唐橋 承久の乱 

日本三名橋のひとつ、瀬田の唐橋。この周辺も承久の乱では激しい戦場となりました。

 

慈円の著書『愚管抄』は、公家と武家の協調を理想とした、中世の日本で最も重要な歴史書とも言われています。後鳥羽上皇による鎌倉幕府に対する挙兵の動きを諫めるために書いた、とされていますが、残念ながら慈円の想いは、後鳥羽上皇には届かなかったのですね。
 

身の程知らずと言われるかもしれないが、このつらい世の中を生きる人々を包み込んであげよう。比叡山に住み始めた私の墨染の袖で。

慈円は、優れた歌人でもありました。慈円の歌は、斬新で技巧に頼ることなく、心が素直に伝わってくる、と高く評価されています。
小倉百人一首に選ばれた歌は、比叡山の座主になった頃に詠まれたものだとか。名門出身の若手エリート僧侶が比叡山に君臨して、これから人々のために世直しをするぞ!といった、若々しいパワーに満ちた作品です。

慈円は、承久の乱の4年後の1225年に、多くの弟子たちに囲まれて、その生涯を閉じました。公武の協調を理想としながら、朝廷中心の貴族社会の終焉と武家の時代の到来を見届けた人生でした。

 
☆こちらの記事では、小倉百人一首の選者、藤原定家をご紹介しております。慈円とは和歌を通じて交流の深かった方でもあります。


来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ いよいよ小倉百人一首の選者が登場!畳の上の格闘技、競技かるたで使われる小倉百人一首、第97番の権中納言定家こと藤原定家(1162-1241)をご紹介いたします。

情報源: 小倉百人一首の選者登場!~百人一首かるたの歌人エピソード第97番・権中納言定家(藤原定家)は、”神”と讃えられたり嫌われたり!? ⋆ MUSBIC/ムスビック

 

 

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