百人一首かるたの歌人エピソード~河原左大臣~儚く消えた悲しい恋の記憶
陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰故に みだれ初(そ)めにし 我ならなくに
心がざわざわと乱れてきた。なぜかしら?
ああ、あの人に恋をしてしまったんだ・・・
恋は不意にやって来ます。
1000年という時を隔てても、恋する思いは、全く変わらないんですね!
”畳の上の格闘技”、競技かるたで使用される小倉百人一首には、恋の歌が何と43首も収められています。共感できる歌が、きっとあると思います(#^^#)
今回ご紹介いたします歌は、かの有名な”光源氏”のモデルと言われる方の作品です。
光源氏の正体は・・・
作者は、河原左大臣(かわらのさだいじん)と表示されています。嵯峨天皇の皇子で、臣下に下り、源の姓を賜った、源融(みなもとのとおる、822~895)のことです。
血筋も地位も筋金入り。しかも風雅を愛した美男子!
源融は、紫式部の『源氏物語』の主人公”光源氏”の、実在のモデルと言われています。
歌に隠された悲しい恋の物語
源融は、陸奥出羽按察使(東北地方を管轄した官職)として、陸奥の国(今の福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県の一部)に出向いていた時期があります。
赴任中に、融は信夫文知摺石(しのぶもじずりいし)を見に、信夫の里(今の福島市)を訪れました。
そこで、虎女という美しく気立ての良い娘と出会い、恋に落ちます。
旅先での行きずりの恋と言うには真剣すぎる、ピュアな恋人たちだったようです。
しかし、幸せな時は長くは続きませんでした。融は都に戻るように命を受け、虎女に再会を約束して、都に戻っていきました。
残された虎女は、融との再会の願いを込めて、信夫文知摺石を磨きました。とうとう石は、融の面影を映し出すことができるようになりましたが、精根尽き果てた虎女は、融と再会を果たすことなく、亡くなってしまいました。
融は、二度と会えなかった虎女との思い出を、この歌に込めたのです。
陸奥の信夫(しのぶ)の里で作られている、もじり染めの乱れ模模様のように、私の心が乱れ始めました。誰のせい?私のせいではありません。愛しいあなたのせいなのです。
融の住い、河原院(かわらのいん)は、今の京都市下京区にありました。そこには、融が愛した東北・塩釜の風景を再現した、美しい庭園があったそうです。日本庭園のルーツと考えられています。
中国文化の影響を強く受けていた奈良時代から一転、日本文化が花開いた平安時代の幕開けですね。
河原院の跡地は、今は渉成園(しょうせいえん)として残っています。周辺には、塩竈町や塩小路通と言った地名があり、融の住まいの名残りをとどめています。
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情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード~権中納言敦忠~若くして亡くなった美青年の切ない想い
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