百人一首かるたの歌人エピソード第99番~運命に抗い、鎌倉幕府に挑んだ”ラスボス”後鳥羽上皇
人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は
後鳥羽上皇!源平の争乱期に生まれ育ち、鎌倉幕府を率いる北条義時の前に立ちはだかったラスボス!
運命に抗いながらも流されていった悲運の人!
畳の上の格闘技、競技かるたに使われる小倉百人一首の歌人エピソード、今回ご紹介いたしますのは、第99番、後鳥羽上皇(1180-1239)です。
後鳥羽天皇は、高倉天皇の第四皇子。壇ノ浦に沈んだ、平清盛の孫安徳天皇の異母弟にあたります。平家と安徳天皇が西に下った1284年に4歳で即位、19歳で土御門天皇に譲位し、以後は上皇として院政を行ないました。
後鳥羽天皇の即位は、まだ安徳天皇がご存命のときに、三種の神器が欠けた状態で行われました。そのため後鳥羽天皇は、”三種の神器が揃っていないコンプレックス”に苛まれていたと言われています。
※安徳天皇とともに壇ノ浦に沈んだ三種の神器、後に鏡と勾玉は戻り、宝剣は見つからなかったので作り直したという説や、宝剣も見つかったという説などが入り乱れ、真相は今も謎に包まれています。
人が愛おしくもあり、恨めしくもある。つまらない世の中だと思うがために、悩んでしまう私です。
源頼朝が鎌倉幕府を開き、政治の中心は、京の都から鎌倉の武家に移っていきました。後鳥羽上皇は、はじめは鎌倉と融和政策を取っていましたが、次第に政権奪還に闘志を燃やし始めました。
この歌は1213年頃、後鳥羽上皇33歳の頃の作品といわれています。
1219年、後鳥羽上皇と和歌を通じて親交のあった源実朝が、甥の公暁に殺されました。その2年後の1221年5月、後鳥羽上皇は、義時追討の院宣を出し挙兵しました。承久の乱の勃発です。鎌倉方の大軍に敗れた後鳥羽上皇は、隠岐に流され、都に戻ることなく、1239年に隠岐で崩御しました。
後鳥羽上皇は、文武両道に長けた多芸多才な人物だったと言われています。弓馬に秀で、武術の訓練を好み、さらに琵琶や蹴鞠も楽しみました。中でも和歌は、「新古今和歌集」の編纂を命じ、日本の文学史に大きな功績を残しました。
歴史に「たられば」は禁物といわれますが、乱世にありながらも多くの素晴らしい歌を残し、文学史に大きな功績を残した後鳥羽上皇、平和な世であれば、人生を思いっきりエンジョイなさったことでしょうね。
☆こちらの記事では、後鳥羽上皇と和歌を通して親交の厚かった、従二位家隆(藤原家隆)をご紹介しております。
風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける
夏の終わり、昼間はうだるような暑さでも、夕方の風が涼しくなってくると、少しずつ秋の気配を感じます。畳の上の格闘技、競技かるたに使用される小倉百人一首の歌人エピソード、今回は第98番、従二位家隆をご紹介いたします。
情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード第98番~従二位家隆、残暑の厳しい日に一服の清涼剤はいかが? ⋆ MUSBIC/ムスビック
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私は百人一首が大好きです。特に第99番の後鳥羽上皇の句が大好きです。それだけにこの記事は興味深く、読ませて頂きました。ありがとうございました!た
コメントありがとうございます!後鳥羽上皇の世情への思いが、とても感慨深い歌ですよね。この歌を選んだ藤原定家のセンスも素晴らしいと思います。