小倉百人一首の選者登場!~百人一首かるたの歌人エピソード第97番・権中納言定家(藤原定家)は、”神”と讃えられたり嫌われたり!?
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
いよいよ小倉百人一首の選者が登場!
畳の上の格闘技、競技かるたで使われる小倉百人一首、第97番の権中納言定家こと藤原定家(1162-1241)をご紹介いたします。和歌の世界では、神のごとく尊敬を集めた方です。
でも・・・嫌われてたって・・・???
藤原定家は多才な嫌われ者!?
時は鎌倉時代初期。藤原定家は、後鳥羽上皇に和歌の腕前を認められ、和歌の世界全体に影響を及ぼすようになっていました。しかし相手が上皇でも、歌に関しては遠慮せずにずけずけとモノを申した定家は、後鳥羽上皇を怒らせ、とうとう謹慎処分を受けてしまいます。
ところが、その翌年に承久の乱が勃発。後鳥羽上皇が鎌倉幕府軍に完敗して宮廷から去ったことで、定家の境遇は一挙に回復!高い官位を得ることとなりました。
その後の定家は、鎌倉幕府とうまく付き合っていたようです。
定家は非常に多才な人で、古典文学の研究でも第一人者。仮名遣いは、明治時代まで標準とされ、本人はコンプレックスを持っていた文字すら「定家様(ていかよう)」として、習字の流派の一つになったほどです。徳川家康が手本にしていたとも言われています。
定家は、18歳から74歳までの日々を克明につづった日記『明月記』を残しました。『明月記』は、地震や流星など、科学の研究にも貢献しました。かに星雲を生んだ、超新星爆発の記述があることが知られています。一方で、出世できない愚痴や、恨み言なども書かれているんですって!
定家の性格はあまり評判が良くなくて(笑)、陰気で粘着質な性格で、しかも強情だったなんて言われています。相当な嫌われ者だったみたいです。(うわっごめんなさい(;’∀’))
いつまでたっても来ない人を待って、松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように、私の身も心も焦がれています。
小倉百人一首で、定家自身が選んだ歌は、技巧が散りばめられた、非常に手の込んだ歌と評価されています。定家の歌のスタイルは「有心体(うしんたい)」と呼ばれ、情景と心情をリンクさせているのが特徴です。
小倉百人一首が成立したのは、鎌倉時代初期。貴族社会から武家の社会へと、大きな変化があった時代です。
実はこの時期に「みやび」「幽玄」といった、王朝文化が確立したとも言われています。
この時期を生きた藤原定家が残した功績は、日本文化を語る上でも計り知れないのですね!
☆藤原定家と源実朝は一度も会ったことがありませんでしたが、実朝は通信教育で定家の指導を受けていました。
世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも 源実朝。鎌倉幕府・源氏の嫡流最後の将軍にして、”歌聖”と讃えられた万葉歌人・柿本人麻呂の再来とも言われた和歌の天才!
情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード第93番~”歌聖”柿本人麻呂の再来!?鎌倉幕府三代将軍、源実朝が夢見たものは ⋆ MUSBIC/ムスビック
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