百人一首かるたの歌人エピソード第45番~謙徳公 失恋の寂しさは美男子のパフォーマンス!?
あわれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな
男性の失恋の歌って、ちょっと情けないって思っちゃいます?でもその歌を詠んだのが、眉目秀麗な貴公子だったらいかがです?百人一首かるたの歌人エピソード、今回は第45番謙徳公をご紹介いたします。
見目麗しく、和歌の才能も豊かな男性が残した、女々しい失恋の歌。果たしてその真意は?
才能豊かな貴公子・藤原伊尹(ふじわらのこれただ/これまさ)
謙徳公とは、高貴な人物の死後に贈られる名前「諡(おくりな)」で、本名は、藤原伊尹(ふじわらのこれただ/これまさ)といいます。10世紀、平安時代中期の方です。藤原伊尹の娘・懐子(ちかこ)は、冷泉天皇の女御となって花山天皇の生母となりました。伊尹自身も順調に出世し、摂政・太政大臣にまで上り詰めました。伊尹の孫のひとりは、三蹟のひとり、藤原行成です。
藤原伊尹は、和歌の名手としても名高く、和歌所の別当として、当時の和歌の名手”梨壺の五人”を率いて、万葉集の解読や後撰集の選定を行ないました。
順風満帆に見えた藤原伊尹ですが、孫の藤原行成が生まれて間もなく、病気により49歳で亡くなっています。
私のことを哀れだと言ってくれそうな人は、誰も思い浮かばない。きっと私は貴女を恋しく思いながら、空しく死んでいくのでしょうね
その歌がつくられた背景などを解説する短文(「詞書」と言います)に、「言い寄った女性につれなくされたから詠んだ歌」なんて書いてあります。なんとまあ、女々しいこと!
ところが、藤原伊尹は、見た目も麗しく、和歌にも長けた貴公子だったそうです。実はこの歌、身分の低い役人のふりをした物語の歌なのだとか。
宮中の女性たちの母性本能をかき立てようとした、美男子ならではのパフォーマンスだったのかもしれません。
49歳という、現代なら短命と言える生涯ですが、女性に片思いをしながら空しく亡くなった・・・なんてことはなさそうですね。
☆こちらの記事では、謙徳公の孫で”三蹟(さんせき)”のひとりとして讃えられている藤原行成をご紹介しております。
平安時代を代表する権力者・藤原道長や、その道長を生涯支え続けた藤原行成。”畳の上の格闘技”、競技かるたで使用される小倉百人一首界隈には、歌は選ばれていないのに、よく登場する人物がいます。当代きっての歌人たちと、縁浅からぬ人たちです。
情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード番外編~人柄良くて努力家で、しかも達筆!時の権力者を支え続けたデキる男・藤原行成 ⋆ MUSBIC/ムスビック
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