百人一首かるたの歌人エピソード番外編~人柄良くて努力家で、しかも達筆!時の権力者を支え続けたデキる男・藤原行成
平安時代を代表する権力者・藤原道長や、その道長を生涯支え続けた藤原行成。
”畳の上の格闘技”、競技かるたで使用される小倉百人一首界隈には、歌は選ばれていないのに、よく登場する人物がいます。当代きっての歌人たちと、縁浅からぬ人たちです。百人一首かるたの歌人エピソードをご紹介するシリーズ、今回は番外編として、藤原行成をご紹介いたします。
NHK大河ドラマ『光る君へ』では、細やかな気遣いと高い能力で藤原道長を支える人物として描かれている藤原行成、いったいどんな人だったのでしょう?
日本を代表する能書家のひとり、藤原行成
藤原行成(972-1028)は、平安時代中期の公卿です。能書家で”三蹟(さんせき)”のひとりとして讃えられています。
※能書家とは、文字を書く技がうまい人のことで、三蹟とは、平安時代中期の能書家、小野道風、藤原佐理、藤原行成の3人を意味します。
藤原行成は、第45番藤原伊尹の孫で、第50番藤原義孝の長男です。生まれて間もなく祖父と父を相次いで亡くし、後ろ盾を失った行成は、母方の祖父・源保光の庇護を受けて育ちました。
地道な努力と誠実な人柄が出世のポイントに!
不遇な少年時代を過ごした行成ですが、なんと24歳という若さで蔵人頭に任命され、一躍政界に躍り出ることになりました。
行成は祖父の言いつけを守り、幼い頃から中国史や漢学などの勉強に励んでいました。前任の源俊賢がそんな行成の学才を認め、ご自身が昇進する際に、行成を後任に推薦したのです。深く感謝した行成は、その後源俊賢よりも位が上位になっても、決して源俊賢よりも上座に座ることはなかったのだとか。
まじめで誠実な人柄だった行成は、時の権力者たちに大いに信頼されました。特に藤原道長とは深く関わっていくことになります。
1028年、行成は偶然にも道長と同じ日にこの世を去りました。権力者・藤原道長逝去のニュースで、宮中は大騒ぎとなり、行成のことは誰も気にもかけなかったと言われています。道長に寄り添い、支え続けた行成らしい最期ともいえますね。行成は、極楽浄土まで道長のお供をしていったのでしょうか。
行成の書は、行成が晩年に建立した世尊寺にちなんで、世尊時流という書道の流派となり、室町時代まで朝廷や貴族に受け継がれていきました。
☆こちらの記事は、行成との口論が原因で(?)陸奥の国に左遷された、元同僚・第51番藤原実方をご紹介しております。
かくとだに えやはいぶきの さしも草 さし知らじな 燃ゆる思ひを 和歌を贈って愛を伝え合った平安時代。”畳の上の格闘技”、競技かるたに使われる小倉百人一首には、男性が詠んだ恋の歌もたくさん登場します。
情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード第51番藤原実方朝臣~燃えるような恋は歌で始まる!? ⋆ MUSBIC/ムスビック
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