百人一首かるたの歌人エピソード第22番・文屋康秀(ふんやのやすひで)~六歌仙なのに”残念な歌人”と言われるけれど?
吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐と言ふらむ
”畳の上の格闘技”、競技かるたに使われる小倉百人一首には、天皇や貴族、宮中に仕えていた人々の歌が多く選ばれていますが、必ずしも身分の高い人たちばかりではありません。今回ご紹介いたします、第22番・文屋康秀(ふんやのやすひで)は、官職こそ低かったものの、優れた歌人として名を残しています。でも、なぜか文屋康秀には、いろいろと残念な逸話が残っているのです・・・
天下の美女・小野小町と恋仲だった!?文屋康秀(ふんやのやすひで)
文屋康秀は平安初期、9世紀頃の歌人です。文琳とも呼ばれています。生没年はわかっていません。官職は低かったものの、歌人としては有名で、六歌仙のひとりとして讃えられています。第37番・朝康の父でもあります。
文屋康秀は第9番・小野小町と親しい間柄だったらしく、三河の国司として赴任先に向かう際に、小野小町を誘ったという逸話が残っています。小野小町は「行っちゃおっかなー」といった歌を残していて、2人は恋仲だった?という説もあるのですが、実際に一緒に行ったのかどうかは、定かではありません。残念!
山から秋風が吹くと、たちまち秋の草木がしおれ始める。なるほど、だから山風のことを「嵐(あらし)」というのだろう
小倉百人一首に選ばれた文屋康秀の歌は、草木が枯れて行く秋のもの悲しさを、言葉遊びを使って、こじゃれた仕上げになっています。
山風の”山”と”風”という漢字を組み合わせると、”嵐”になります。しかも「荒らし」との掛詞でもあります。このような言葉遊びは、中国の『離合詩(りごうし)』という、漢詩の技法が起源と言われています。文屋康秀の教養の深さが伝わってきます。
でもこの歌、何が残念って、息子である第37番・文屋朝康の作品ではないかという噂があるのです。真偽のほどは定かではありませんが。
文屋康秀の歌は、知的で軽快な技巧が散りばめられていて、とても人気があったのですが、第35番・紀貫之から、辛辣に批判されています。紀貫之といえば、日本文学史上、非常に名高い人物。そんな人物から、「文屋康秀の歌は、技巧が凄いが中身がない。」と、ひどい言われようなので、もう残念でたまりません。
でも、文屋康秀は技巧が凄いからこそ愛され、名を残したのではないかしら?
もしかすると、文屋康秀は身分が低いのに歌人として重用されたから、誰かに妬まれちゃったのかもしれませんね。でも、妬んだ人は歴史の闇に埋もれてしまい、文屋康秀は六歌仙のひとりとして、しっかりと名を残しました。
ということは・・・歴史の”勝者”は一体どちらだったのかしら?(笑)
☆こちらの記事は、文屋康秀の恋のお相手?第9番・小野小町をご紹介しております。
花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに
その生涯が謎に包まれているミステリアスな女性、小野小町。世界三大美女のひとりとも言われる小野小町は、情熱的で優れた歌を数多く残し、今もなお人々の共感を集めています。
情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード第9番~小野小町から1000年の時を越えたエール!くよくよ思い悩んでいないで、歩いていこう! ⋆ MUSBIC/ムスビック
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