百人一首かるたの歌人エピソード第47番・恵慶法師(えぎょうほうし)~もの悲しい秋の風情はこうして生まれた!
八重葎(やへむぐら) しげれる宿の 寂しきに 人こそ見えね 秋は来にけり
紅葉の華やかさ、人恋しくなるもの悲しさ・・・日本の秋は相反する二つの表情を持っています。もの悲しい秋の風情は、中国の影響から離れ日本ならではの文化が育まれていった、平安時代に生まれました。
百人一首かるたの歌人エピソード、今回ご紹介いたします第47番・恵慶法師(えぎょうほうし)は、秋は寂しい季節、という、日本の秋の定番イメージを作り上げた人たちのひとりです。
和歌で名を残した僧侶・恵慶法師
恵慶法師(えぎょうほうし)は、平安時代中期の僧侶です。生没年や出自などはわかっていません。
恵慶法師は、播磨国(今の兵庫県)で、僧侶たちの指導をして尊敬を集めていたそうです。和歌の達人としても名高く、第40番・平兼盛、第42番・清原元輔、第55番・藤原公任など、当時の著名人たちとの交流の記録が、数多く残っています。
つる草が何重にも重なって生い茂っている荒れ寂れた家。訪れる人はだれもいないが、それでも秋はやってくるのだなあ。
歌の舞台は河原院。平安初期(9世紀)の歌人、第14番・河原左大臣こと源融が造った豪邸です。
源融は光源氏のモデルのひとりと言われ、また河原院は光源氏の邸宅「六条院」のモデルと言われ、多くの人々が集う華やかな場所でした。しかし河原院は、源融の死後すっかり荒れ果ててしまいます。
恵慶法師の生きた10世紀になると、河原院は源融のひ孫にあたる安法法師が住み、廃園を好む歌人たちの人気スポットになりました。栄華を極めた邸宅が荒廃した姿は、もののあわれや幽玄といった、平安時代ならではの美意識を育んでいったようです。
さらに、藤原定家が百人一首に恵慶法師の歌を選んだことによって、秋はもの悲しい季節という感覚が、私たち日本人の心に定着するきっかけになりました。
今では、秋といえばもの悲しい、人恋しい季節という発想は、私たちの心に定着していますが、恵慶法師の歌は、そのきっかけを作った歌のひとつだったのです。
河原院は、栄華を極めた頃には光源氏の館のモデルとなり、寂れた後は、光源氏が夕顔と一夜を過ごした廃屋のモデルになりました。さらに、NHK大河ドラマ『光る君へ』では、まひろと道長が共に過ごした廃屋のモデルにもなっているんですって!
和歌と共に、館の記憶も1000年の時を超えて受け継がれてきたのですね!
☆こちらの記事は、河原院に住み、光源氏のモデルとも言われた、第14番・河原左大臣(源融)をご紹介しております。
陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰故に みだれ初(そ)めにし 我ならなくに 心がざわざわと乱れてきた。なぜかしら?ああ、あの人に恋をしてしまったんだ・・・
情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード第14番・河原左大臣~儚く消えた悲しい恋の記憶 ⋆ MUSBIC/ムスビック
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