百人一首かるたの歌人エピソード第93番~”歌聖”柿本人麻呂の再来!?鎌倉幕府三代将軍、源実朝が夢見たものは
世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも
源実朝。鎌倉幕府・源氏の嫡流最後の将軍にして、”歌聖”と讃えられた万葉歌人・柿本人麻呂の再来とも言われた和歌の天才!
畳の上の格闘技、競技かるたに使われる小倉百人一首の歌人エピソード、今回は第93番、鎌倉右大臣こと源実朝をご紹介いたします。
権力闘争に翻弄された三代将軍
鎌倉幕府から唯一、小倉百人一首に選ばれた源実朝(1192-1219)は、源頼朝と北条政子の次男で、鎌倉幕府の三代将軍です。実朝という名は、後鳥羽上皇が命名しました。
実朝が将軍になったのは、12歳の時。将軍になったばかりの頃は、北条氏が政治を動かしていました。利発な少年だった実朝は、常に良き統治者になろうと努力をしていて、次第に政治の意思決定にも関与するようになりました。
実朝といえば、これまで「武士らしからぬ軟弱者で武芸の鍛錬をせず、和歌や蹴鞠にばかり熱中していた」「幕府の政治を顧みず、宮廷から授かる官位にばかりこだわっていた」など、ずいぶんな言われようをしてきました。
実際の実朝は、病弱で確かに武芸は苦手だったようです。また実朝は、子どもに恵まれなかったため、源氏の嫡流が自分で絶えるとわかっていました。実朝が官位にこだわったのは、自分の死後、鎌倉幕府が少しでも朝廷に有利になるようにとの思いからだったようです。和歌や蹴鞠は、朝廷との橋渡しのツールと考えていたのかもしれません。
1218年12月、実朝は武士として初めて、右大臣に任ぜられました。平清盛も、父源頼朝も到達しなかった高い官位です。しかし翌年1月、昇任を祝うために鶴岡八幡宮に拝賀した帰り、実朝は甥の公暁に襲われ、26歳という短い生涯を閉じました。
実朝の死の2年後、後鳥羽上皇は挙兵。承久の乱が起ります。承久の乱は、一般的には鎌倉幕府を倒すための挙兵といわれます。一方で、実朝殺害の黒幕を北条義時と考えた後鳥羽上皇が、義時討伐の命令を出したもので、倒幕までは考えていなかったという説もあり、真相は定かではありません。
世の中は常に変わらないで欲しいものです。この渚を漕いでいる漁師の小舟の綱手を引くさまが、面白くもうら悲しくも見えます。
実朝は、”生涯で一度も京の都に行ったことのない天才歌人”といわれます。
自身の歌集『金槐和歌集』に、600首を超える歌を残した実朝。残された歌から、実朝が五七調と言われる万葉調と、七五調と言われる古今調、その両方を使いこなしていたのがわかります。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、三善康信が実朝に「ててててて」と、ゆるーく和歌の調子を教えているシーンが印象的でした。実際の実朝も、思いつくままに言葉を綴っているうちに、万葉調も古今調も、自在に操れるようになっていったのかもしれませんね!
後世、松尾芭蕉は実朝を、”歌聖”と言われた柿本人麻呂の再来と大絶賛しました。明治時代になってからも、斎藤茂吉、正岡子規といった著名な歌人や、国文学者の小林秀雄から、最大級の賛辞を贈られています。
藤原定家が小倉百人一首に選んだ実朝の歌は、何気ない日常の風景の中に、平和への願いをこめた歌。現代の私たちにも通じる、普遍的な願いが、そこには込められています。
☆こちらの記事は、源実朝の名付け親でもあった後鳥羽上皇をご紹介しています。
人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は
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情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード第99番~運命に抗い、鎌倉幕府に挑んだ”ラスボス”後鳥羽上皇 ⋆ MUSBIC/ムスビック
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