百人一首かるたの歌人エピソード第24番・菅家~かつて京の都を恐れさせた怨霊は最強の学問の神様に!

このたびは 幣も取りあへず 手向山(たむけやま) 紅葉の錦 神のまにまに

飛鳥時代から鎌倉時代までの、個性豊かな歌を集めた小倉百人一首には、なんと怨霊が2名登場します。そのひとりが今回ご紹介いたします第24番・菅家こと菅原道真です。
スピード出世を果たしたエリート官僚が、死後怨霊となって平安京の人々を恐れさせ、その後学問の神様として受験生の最強の味方となったらしいのですが、いったい何が起きたのでしょう・・・!?

 

菅原道真 菅家 百人一首

江戸後期から明治にかけて活躍した絵師、菊池容斎の描いた菅原道真(出展:Wikimedia Commons)

 

日本史上指折りの学者が怨霊に!?

菅原道真(845~903)は、平安時代中期の貴族で学者でもありました。道真は、教養深く和歌や漢詩の才能にも恵まれた結果、スピード出世を果たしました。しかし人々の妬みを買い、謀反の疑いをかけられて大宰府に左遷されてしまいます。道真は、大宰府に左遷された2年後、失意のまま亡くなりました。
道真の死後、都では数々の事件が続きました。人々は道真の怨霊の仕業と考え、都は恐怖のどん底に・・・

 

怨霊が学問の神様に?

都の人々を震撼させた道真の怨霊は、落雷などの災害として現れたため、「雷神」と恐れられました。人々はこれを鎮めるために、道真を天の神、「天神様」として祀り、「天満宮」を建立しました。道真の墓所に建てられたのが、太宰府天満宮です。

時は流れ、次第に祟りや怨霊のイメージは薄れていきました。生前、道真が高名な学者だったこと、左遷されてもなお、自分の運命を受け入れて勤めに励んでいたことなどが語り継がれ、いつしか学問の神様になっていったと言われています。
今の太宰府天満宮は、学問の神様として、合格祈願の受験生やその親たちでにぎわっています。また道真が死後名誉を復活させたことから、復活の聖地とも言われます。

 

太宰府天満宮

菅原道真の墓所に建てられた太宰府天満宮

 

ところで道真公の学問における功績とは?

菅原道真の学問における功績は、自分のための「勉学」を、社会のための「学問」へと発展させたことと言われています。道真が生きた時代は、それまでの律令制度が行き詰まり、度重なる災害や疫病が蔓延したつらい時代でした。そんな時代に、道真は優秀な人材を育てて国を発展させようと尽力したのです。
道真のその姿勢が後世の人々を惹きつけ、学問の神様として敬われるようになっていったのですね。

 

今度の旅は急なことだったので、道祖神に奉げる幣(ぬさ)も用意することができませんでした。手向の山の紅葉を捧げますので、神様、御心のままにお受け取りください

 
百人一首に選ばれた道真公の歌は、左遷される2年ほど前の絶頂期に詠まれました。
忙しくて神様への捧げものが用意できなかった代わりに、山を彩る美しい紅葉を神様に奉げようとするなんて、風景の美しさに加えて道真公の心の美しさまでが伝わってきますね!

天神様、天満宮と呼ばれる、菅原道真を祀る神社は、全国に1万社以上あると言わています。どこも道真に由来があります。道真が立ち寄った場所だったり、使ったものが祀られていたり。

 

東京の亀戸天神は、菅原道真の子孫が「東の方でも天神さまをお祭りするように」とのお告げを受けて建立したのだとか

 

☆こちらの記事は、もう一人の怨霊、第77番・崇徳院をご紹介しております。


瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ 天皇なのに、史上最強の怨霊とか、最強の守護神とか・・・!?何事かと思ってしまいますね!

情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード第77番~史上最凶の怨霊から最強の守護神になった、崇徳院のお話 ⋆ MUSBIC/ムスビック

 

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