百人一首かるたの歌人エピソード第56番~恋に生きた天才女流歌人・和泉式部

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな

死ぬ前にもう一度だけ愛しい人に逢いたい・・・
畳の上の格闘技、競技かるたで使用される小倉百人一首の中でも、特に情熱的なこの歌。みなさまも聞いたことがあるのではないでしょうか?
百人一首かるたの歌人エピソード、今回は第56番、和泉式部をご紹介いたします。抒情的な歌を数多く残した天才女流歌人、そして”恋多き女”としても名を残した方です。

 

和泉式部 百人一首

和泉式部(出展:Wikimedia Commons)

 

和泉式部のこと

和泉式部が活躍したのは平安時代中期。生没年は定かではなく、西暦1000年頃に生きた女性と考えられています。平安時代の多くの女性がそうであったように、和泉式部の本名はわかりません。父親である越前守・大江雅致(おおえまさむね)と、最初の夫である和泉守・橘道貞(たちばなのみちさだ)の官職名にちなんで、和泉式部と呼ばれたようです。
橘道貞との間には、小式部内侍という娘がいます。彼女もまた優れた歌人でした。

 

和泉式部の恋の顛末

和泉式部は、道貞と結婚していた間に、冷泉天皇の第三皇子である為尊親王(ためたかしんのう)と恋に落ち、為尊親王が若くして亡くなられた後は、為尊親王の弟である敦道親王(あつみちしんのう)と恋に落ちました。その結果、夫からは離縁され、父親からは勘当され・・・しかも敦道親王も早くして世を去ります。
才能豊かな女性だった和泉式部は、そんな状況にもくじけずに一条天皇の中宮彰子に仕え、紫式部や伊勢大輔、赤染衛門らとともに、雅な宮廷文化を築き上げました。
40歳を過ぎた頃、和泉式部は藤原保昌と再婚。夫とともに丹後に下りました。

 

和泉式部 保昌山 百人一首

祇園祭に登場する山鉾のひとつ「保昌山」は、藤原保昌が和泉式部のために、帝のおわす紫宸殿(ししんでん)の紅梅を手折って届けたという故事に由来します。(Photo by 江戸村のとくぞう, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>)

 

和泉式部の晩年

1025年に娘の小式部内侍が死去。愛する娘に先立たれた和泉式部は、その後出家して、京都市中京区の誠心院(通称・和泉式部寺)の初代住職になったと言われます。
和泉式部は、どうやら多くの女性たちのあこがれの的だったようです。和泉式部のお墓は誠心院にあるのですが、他にも全国各地にあります。なんと10か所以上あるんですって!各地に和泉式部にまつわる伝説が残されています。

 

私は間もなく死んでこの世を去りますが、その思い出にもう一度あなたにお会いしたいものです

この歌には、特にこれといった技巧は使われていません。それだけに、死ぬ前にもう一度恋しい人に逢いたい、という切なる想いが、ストレートに伝わってきます。まさに”天才歌人”の誉れ高い和泉式部の、面目躍如の一首だったのですね!

同僚だった紫式部は、和泉式部の歌の才能を高く評価しつつ、恋愛に関しては”けしからぬ人”(感心できない人)と書き残しています。ネクラと噂された紫式部のこと。もしかすると、思いのままに生きた和泉式部に嫉妬していたのかもしれませんね(笑)

 
☆和泉式部と敦道親王との恋は、『和泉式部日記』に綴られています。日本の女流日記文学の代表的存在とされています。

 
☆こちらの記事は、和泉式部のライバル?、ともに宮廷文化を築いた紫式部をご紹介しています。


めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな
畳の上の格闘技、競技かるたに使われる小倉百人一首には、12首の月の歌が選ばれています。その中から、幼友達との再会と別れを、雲間に消えた月になぞらえて詠んだ歌をご紹介させていただきます。

情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード第57番〜内気な才女・紫式部、幼友達への想いを雲に隠れる月に込めて ⋆ MUSBIC/ムスビック

 

 

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