百人一首かるたの歌人エピソード第42番清原元輔~恨み節の代作を頼まれるほどの大歌人は、人を笑わせるのが大好きだった!?

契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪越さじとは

恋人に裏切られたとき、SNSのない平安時代の人たちは、気晴らしに歌を詠んでいました。今回ご紹介いたしますのは、そんな恨み節・・・なんですが、実は誰かのための代作ですって!?
”畳の上の格闘技”、競技かるたで使われる百人一首かるたの歌人エピソード、今回は第42番清原元輔をご紹介いたします。ユーモアのセンスたっぷりの愛すべきおじいちゃんです。

 

小倉百人一首 競技かるた 清原元輔

清原元輔(出展:Wikimedia Commons)

 

偉大な歌人・清原元輔

清原元輔(908~990)は、第36番清原深養父の孫で、第62番清少納言の父にあたる方です。三十六歌人のひとり、そして、平安中期に活躍した大歌人「梨壺(なしつぼ)の五人」のひとりです。
「梨壺の五人」とは、村上天皇の命により、御所内の建物・”昭陽舎(しょうようしゃ)”に置かれたお役所、”和歌所(わかどころ)”の職員に選ばれた5人のこと。万葉集の解読や、後撰和歌集の編纂などを行ないました。昭陽舎は、庭に梨の木が植えられていたので「梨壺」と呼ばれていたそうです。

清原元輔は、ユーモラスで、人を笑わせることを生業としているのでは?とまで言われた方でした。
清少納言は、元輔が57歳か58歳くらいの時の子どもです。孫のような存在で、とても可愛がられて育ったのでしょうね。清少納言の天真爛漫でユーモアのセンスに富んだ性格は、まさに父親譲りだったのです!

 

約束しましたよね。お互いに何度も涙でぬれた着物の袖を絞って、末の松山を波が超すことがないように、2人の愛も決して変わらないと。(それなのにあなたは・・・)

 
その昔、今の宮城県多賀城市の、海辺の小高い丘の頂上に、大きな2本の松の木が立っていました。「末の松山」と言われ、どんなに激しい波でも決して越すことがなかったことから、「末の松山を波が越す」とは、絶対に起らないことの例えとして使われた表現です。

 

末の松山 おくのほそ道

「末の松山」は松尾芭蕉の『おくのほそ道』の風景地にも指定されています(出展:Wikimedia Commons)

 
この歌は、清原元輔が自分の未練心を詠ったのではなく、他の人(しかも男性!)の代わりに詠んだ歌と詞書がついています。元輔はあまりにも歌が上手いので、多くの人から代作を頼まれたようで、屏風歌など、貴人からの注文に応じて創作した歌が数多く残されています。
81歳と、平安時代の人としては、とても長生きをした清原元輔。そのユーモアたっぷりの楽しい性格は、歌風にも表れ、それもまた多くの方たちから好まれていたのですね。

 
☆こちらの記事は、清原元輔の愛娘、清少納言をご紹介しております。


夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
畳の上の格闘技、競技かるたに使われる小倉百人一首に登場する女性たちは、みな才能豊かな才女たちです。

情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード第62番清少納言~男女の仲を隔てる「逢坂の関」は難攻不落⁉ ⋆ MUSBIC/ムスビック

 

 

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