百人一首かるたの歌人エピソード第62番清少納言~男女の仲を隔てる「逢坂の関」は難攻不落⁉
夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
畳の上の格闘技、競技かるたに使われる小倉百人一首に登場する女性たちは、みな才能豊かです。その中でも、紫式部と並び称される女性が清少納言!
百人一首かるたの歌人エピソード、今回は、平安時代を代表する女流歌人・作家のひとり、第62番清少納言をご紹介いたします。
リア充自慢?脳みそお花畑?いえいえ、清少納言の真心は・・・
清少納言(966?~1025?)は、第36番清原深養父(きよはらのふかやぶ)のひ孫で、42番清原元輔(もとすけ)の娘と言われます。本名はわかっていません。学者の家に生まれ、子どものころから天才ぶりを発揮しました。
清少納言は、一条天皇の中宮定子(ていし)に仕え、世界最古の随筆『枕草子』を残しました。
この『枕草子』、定子に褒められた自慢話が満載で、まるで”リア充自慢”とか”脳みそお花畑”と見られがちなのですが・・・
実は、定子は24歳という若さで亡くなっています。清少納言は、定子との楽しかった日々を残すため、定子の没後9年に渡り、『枕草子』を書き続けました。
ライバル紫式部との関係は?
清少納言と紫式部はライバル関係と言われますが、2人に面識はありません。紫式部が、『紫式部日記』で一方的に清少納言をディスッているだけなんです。
紫式部は、仕えていた中宮彰子(しょうし)がいかに素晴らしい女性であるかをアピールするために、彰子のライバル定子に仕えていた清少納言をディスったようです。さすがに中宮のことは悪く書けなかったみたい。そんな粘着質でネクラな性格だからこそ、紫式部は『源氏物語』という大作を書き残せたのかもしれません。
一方の清少納言は、誰かの悪口も、恨みつらみも、一言も残していません。楽しい思い出だけを書いて、定子がどんなにすばらしい女性だったかを、1000年の時を超えて、私たちに伝え残してくれました。
炸裂する中国故事の教養!
ある夜、清少納言のもとに大納言藤原行成がやってきました。二人はおしゃべりをして楽しく過ごしましたが、行成は早々に帰ってしまいました。
翌朝、「鳥の鳴き声にせかされて帰ってしまいましたが、お名残惜しくて…」と言い訳の手紙をよこした行成。
清少納言は「夜に鳥の声?それはきっと孟嘗君の鳥のことね」と返しました。古代中国の政治家・孟嘗君が、鶏の鳴き真似をして函谷関という関所を開けさせ、敵国から逃亡した故事に由来します。
すると行成は「いえいえ、あなたと私は逢坂の関ですよ。」と返します。逢坂の関は、平安京の東に位置した関所のこと。古典では、男女の逢瀬になぞらえて登場することが多い地名です。平安時代ならではのナンパといったところですね。
そこで清少納言が詠んだのがこの歌です。
夜の明けないうちに、鶏の鳴きまねをしても、逢坂の関は決して通れませんよ。(私のことをだまそうとしても、その手には乗りませんよ)
あわよくば・・・と、下心満々で肩に手を回してきた男性の手を、「何やってんの?」と、パシッと払いのけるイメージでしょうか?
清少納言は、大真面目に拒絶をしているのではなく、中国故事の知識を下地に、ユーモアと機知に富んだ歌を送り付けて、行成をかるーくあしらったのです。
しかもこのやりとり、清少納言は黙っていてあげたのに、あしらわれた行成が人に話してしまって、明るみに出たのだとか。
ナンパの失敗が1000年語り継がれちゃうなんて、行成もラッキーな男性だったということでしょうか?
☆こちらの記事は、清少納言のひいおじいさんにあたる、清原深養父をご紹介しております。
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情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード第36番~清原深養父~短い夏の夜に月を探して ⋆ MUSBIC/ムスビック
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