百人一首かるたの歌人エピソード~自分の才能と情熱を大切に生きた”超絶ニート”紀友則

ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心(しづごころ)なく 花の散るらむ

春の訪れを鮮やかに告げ、あっという間に散りゆく桜の花。そのつかの間の美しさ、はかなさに心奪われるのは、昔も今も変わらないようです。

”畳の上の格闘技”、競技かるたで使用される小倉百人一首から、今回ご紹介いたしますのは、散りゆく桜に心乱れる歌。作者は紀友則(きのとものり)。平均寿命が男性33歳、女性27歳と言われる時代に、なんと40代後半まで無職だった方です。

 

平安時代の”ニート”紀友則

紀友則(845?~907?)は、平安前期、宇多天皇から醍醐天皇に仕えた方で、三十六歌仙のひとりとして讃えられています。同じく三十六歌仙のひとりで、『土佐日記』の作者・紀貫之(きのつらゆき)とは、従兄弟同士です。

紀家は、代々官職についている家柄なのですが、友則が官職についたのは、40代後半と言われていて、若い頃は、今でいう”ニート”(無職)だったようです。
しかし、友則は、高貴な人々が集まる歌会に幾度となく顔を出し、数々の素晴らしい歌を残しています。中にはロマンティックで情熱的な恋の歌も。

どうやら友則は、歌の才能、そして愛される人柄ゆえに、官職がなくても、何の問題もなく生きていけたようです。

 

狩野探幽『三十六歌仙額』より紀友則(出展:Wikimedia Commons)

 

才能を評価され、キャリアが花開いた晩年

晩年、紀友則は従兄弟の貫之や、壬生忠岑(みぶのただみね)らと共に、古今和歌集の撰者に抜擢されました。歌の才能や人柄が、とうとうキャリアの花を咲かせたのです。

しかし、残念なことに、古今和歌集の完成を見ることなく、友則は亡くなってしまいました。
このとき、紀貫之と壬生忠岑が詠んだ歌が、古今和歌集に収められています。

あすしらぬ 我身と思えど 暮れぬまの けふは人こそ 悲しかりけれ
紀貫之

(明日の命もわからない我が身だけれど、暮れない間の今日は、亡くなった人のことがただただ悲しい)

時しもあれ 秋やは人の 別るべき あるを見るだに 恋しきものを
壬生忠岑

(ただでさえ物悲しい秋に、人が永の別れを告げていいのだろうか。生きて元気でいる友達を見ていても恋しくなるというのに。)

心のこもった追悼の歌を贈られた友則、どれだけ人から愛されていたか、うかがい知ることができますね。

 

こんなに日光が穏やかな春の日に、なぜ桜の花は落ち着かずに散っていくのだろう。このままいつまでも咲いていてほしいのに・・・

 

紀友則の歌は、百人一首の中でも、特に有名な歌のひとつです。国語の教科書にも、広く取り入れられています。

人々の記憶により強く残るのは、その人の職業や肩書きなどではなく、想いを込めた作品や生き様なのでしょうね。

 

✩桜をテーマにした歌、こちらはプレッシャーに負けずに大きなチャンスをものにした、伊勢大輔をご紹介しております。


いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
上司や先輩、取引先の偉い人たちが大勢いる前で、即興で歌を詠め!? それはもう、大変なプレッシャーではありませんか! “畳の上の格闘技”、競技かるたで使用される小倉百人一首から、今回ご紹介いたします歌は、まさにそんな状況で生まれました。

情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード~伊勢大輔、プレッシャーの中でチャンスをつかんだ新人女官

 

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