小倉百人一首 畳の上の格闘技 競技かるた

百人一首かるたの歌人エピソード第55番大納言公任~この命絶えるとも、我が作品よ永遠なれ!

滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ

自らの命が絶えても、その功績・作品は時代を超えて語り継がれたい…
これこそ芸術家の夢・芸術家の願いではないでしょうか?
その願いをかなえ、”畳の上の格闘技” 競技かるたに使われる小倉百人一首は、1000年の時を超えて、いにしえの人々の作品を今に受け継いでくれました。
百人一首かるたの歌人エピソード、今回は第55番大納言公任(だいなごんきんとう)をご紹介いたします。

 

江戸時代後期から明治時代初期に活動した絵師・菊池容斎が描いた藤原公任(出展:Wikimedia Commons)

 

平安時代のエリートで花形歌人

大納言公任の本名は、藤原公任(ふじわらのきんとう)といいます。西暦1000年前後に生きた、平安時代中期を代表する花形歌人で、とても博学・多才な人物でした。
時の権力者・藤原道長は、同い年でまたいとこにあたります。
公任は、若い頃は順調に出世したものの、途中で昇進は停滞。道長と親しく交わることで、そこそこの官位をキープしました。次女と長女を続けて亡くした後は、世をはかなんで出家しましたが、出家後も多くの人との交流があったことが記録に残っています。

 

公任にまつわる「三舟の才(さんしゅうのさい)」の逸話

藤原道長が、大井川で舟遊びをしたときのことです。道長は、「漢詩」「管絃」「和歌」という3つの舟を出し、それぞれの分野の名人を乗せて腕前を披露させました。
道長が、全てに優れた公任はどの舟に乗りますか?と尋ねたところ、公任は和歌の舟を選びました。見事な和歌を披露して、その場の人たちから絶賛された公任。
しかし、本人は、「漢詩の舟に乗って、このくらいの漢詩を作ったら、自分の名声はもっと上がったのに…」と悔やみ、道長に舟を選べと言われたときに、全ての分野で認められているとうぬぼれてしまったと反省したのだとか。

 

大覚寺の池 藤原公任 小倉百人一首

日本最古の人工池と言われる京都・大覚寺の大沢池の北側に、公任が詠んだ「名古曾の滝跡」があります。

 

滝は枯れて、その音はもう聞こえなくなってずいぶん久しいけれど、その名声は今もなお語り継がれています

京都・嵯峨野の大覚寺には、かつて滝がありました。公任の時代には、既にその滝は枯れていました。滝の在りし日をしのんで詠んだ歌なのですが、枯れた滝を昇進の滞った自分と重ねて、世の無常感を詠ったとも、自らの命が絶えた後も、作品を世に残したいという文学者としての願いを詠ったともいわれます。

 
公任が生きた時代から1000年後の今、小倉百人一首は、”畳の上の格闘技”と呼ばれる競技かるたに用いられ、日本だけでなく、中国、台湾、韓国、さらにアメリカやフランス、ブラジルなど、多くの国と地域に広がっています。
公任の作品は、いっそうの輝きを放ち、まさに「名こそ流れてなお聞こえけれ」を実現したのですね!

 
☆こちらの記事は、公任の嫡男、権中納言定頼(藤原定頼)をご紹介しております。


朝ぼらけ 宇治の川霧 絶え絶えに あらわれわたる 瀬々の網代木
旅先で、早朝ふと目を覚まして窓の外を見眺めたら、普段見ることのできない幻想的な光景を目の当たりにして、はっと息をのんだ…
そんなご経験をお持ちの方、多いのではないかしら?

情報源: 百人一首かるたの歌人エピソード第64番権中納言定頼~幻想的な光景を歌い上げた、容姿端麗で教養豊かな文化人なのですが・・・ ⋆ MUSBIC/ムスビック

 

 

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